恐れと信仰

マルコ4:35-41

恐れと信仰は天秤の関係にある。恐れを伴わない信仰の旅路はない。恐れが増す時信仰を見失い、信仰に満たされる時恐れは遠ざかる。恐れと信仰は常にそのような緊張関係で共存している。信仰故に全く恐れを知らないキリスト者など現実的に存在しない。自分の十字架を背負ってイエスに従う信仰の旅路に恐れは常につきまとうのである。

強風と高波を恐れた弟子たちの様子は信仰の旅路を象徴している。イエスは風と湖を叱ってこれを沈めた。この奇跡物語の中心はイエスの自然をも従わせる力(それは言葉が事実なる力であるが)の偉大さを主張する所にない。中心はその後「何故怖がるのか。まだ信じないのか」という弟子たちへの問いにある。

賛美歌に「主共に居ませば恐れはあらじ」とあるが弟子たちは主が共におられる事を見失っていた。即ち不信仰が恐れの原因である。しかしその不信仰の正体は何であろうか?弟子たちは強風と高波を恐れ「先生、わたしたちが溺れてしまってもかまわないのですか」と言った。ここにそれが露呈している。

明治時代のキリスト者は武士道とキリスト教の共通点を論じている。それは主君と家来の関係が神と人のそれに類似している。家来は主君を第一に考えて仕える。何となれば切腹(殉教)も覚悟している。それに比べて「先生、わたしたちが溺れてしまっても・・・」という弟子たちの狼狽(ろうばい)ぶりは如何なものか。

主を見失った事が恐れを抱かせそれを不信仰であると前述したが、その内実は(武士道を拝借するなら)イエスは主(あるじ)ではなく自分自身が主になっている。主より我が身を優先している。それが主を見失ったことの内実であり、不信仰の正体は主君を主君と思っていない主に依存するだけの不誠実な家来である。このような弟子は主を愛していない、故に隣人を自分のように愛することなど到底出来ないのである。

キリスト者は主の僕である。信仰と恐れは表裏一体である。信仰の旅路に恐れはつきまとう。恐れを知らない完全な信仰などありえない。だからこそ恐れを抱く度に自問自答しよう。この恐れは何者か?何処から来たのか?今私は何を恐れたのか?何故それを恐れたのか?その度々に、この問いに向き合う事が自分の十字架を背負うということなのかも知れない。また恐れに傾いた天秤を信仰の方に引き戻していく営みであり、信仰を生きるとはそんな恐れとの闘いの中で主を再発見していくことなのだろう。今はあえて恐れるなとは言わない。ただ恐れる度にイエスの問いを思い出そう。「何故怖がるのか。まだ信じないのか」

孫 裕久

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