驚くべき所

マルコ福音書6.45-52

「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。(中略)イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。」(49-52)

マルコは、弟子たちがパンの出来事の何を理解していなかったと言いたいのか?ここでマルコは読者に対し前節のパンの物語を読み直すことを望んでいる。するとこの奇跡物語に重要な要素が欠けていることを確認する。それは驚きである。これ程の奇跡に誰一人驚いた様子が記されていない。注目すべきは、湖上を歩くイエスを驚いて、一方パンの出来事には誰一人驚いていない点である。

おそらくパンの出来事はその現場に居た弟子たちにとって何ら驚くべき事件ではなかった。僅かなパンと魚を分け与えるイエスの姿に促され、群衆間でパンを持つ者が隣の持たない者と分かち合っただけに過ぎない。これは奇跡ではない、と感じたのは当然である。しかしイエスによればこれこそが奇跡なのだ。一粒の種が30倍60倍100倍にもなったあのたとえ話が事実となった神の国の奇跡なのだ。イエスの新しい教えは言葉が事実となる。湖上を歩くイエスに驚く弟子たちは、本来驚くべき所を見落としている。それが「理解せず」の意味であると解したい。

この河川敷の街から大勢の住民が立ち退いて15年の歳月が流れた。偶然道端で懐かしい元住民と再会すると皆さん決まって「え!ヨルダンまだあるの?」と大層驚かれる。教会の皆さんにとっては自覚の薄い所であるが、今もヨルダン寮が存在しているのは本来驚くべき所なのだ。私たちはそれに気付いていない。何故今もヨルダン寮は存在しているのか?それは今日まで神がこれを必要とされてきた事の顕れである。キリスト者とはその神の御心に日々出遭って驚いていくものである。

私たちは日常で他にも見落としているかも知れない。本来驚くべき所を。

孫 裕久

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