帰路を案じて

マルコ福音書8:1-10

わずかなパンで大勢の群衆が満たされた奇跡物語は既に(6:30~)見た所である。しかし今回はパンを共有した動機に前回との違いを確認する。

「空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れ切ってしまうだろう」(8:3)。イエスは群衆の帰路を案じた。

群衆はイエスを訪ね、病を癒やされ教えに耳を傾けた。イエスは群衆の要求に応えたが、彼らの帰路(後のこと)についてまで責任があるとは思えない。しかしイエスの「時」は過去現在未来という切り分けをしない。

私たちは時間を巧みに切り分けて自己責任論を持ち出す。自己責任とは即ち「私に責任はない」という意味である。隣人との出会いと関わりにおいて、私はこの人について何時まで責任を負っているのだろうかと思い悩む時がある。そんな思いが自分勝手な時間割を持ち出して自己責任論に逃げ込んでしまう。

イエスによる隣人との関係に、昔のこと今のこと後のこと、という時間の切り分けはない。神の時(カイロス)は既に満ちているのだ(1.15)。この満たされた時を教会は歩んでいる。

御言葉を語っているだけなら悩むことはなかったかも知れない。しかし御言葉を生きる教会はその人の帰り道のことまでも考えてしまう。イエスの新しい教えを生きる教会はそういうところで悩み迷い葛藤するのだ。しかしその先に多くの恵み(分かち合い)があることを信じて。

孫 裕久

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