他者中心の神

マルコ8.14-21

イエスは「まだ悟らないのか」と言われた。(8.21)

弟子たちの致命的な問題はイエスが共にいる事を気づいていない点にある。故にイエスは「目があっても見えないのか」と嘆かれる。イエスの「ファリサイ派の人々のパン種に気をつけなさい」という忠告を弟子たちはパンを忘れたことへの叱責と受け止めた。彼らは互いにその責任について論じあっていたのであろう(8.16)。

ファリサイ派の人々が救いではなく自らを納得させるためにイエスにしるしを求めたことと等しく、弟子たちの関心は自分自身にあった。いわゆる自己中心であるが、これは「我がまま」という類のものではない。熱心であることに変わりはないがその関心が隣人に向いていない。聖書の神は「他者中心の神」である。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ福音書3.16)

人が自分の救いを求めるのは当然である。しかし自分の救いは隣人の救いと無関係ではあり得ない。「わたしは何者であるのか?」という立問は正しい。しかしその「わたし」は隣人や共同体と無関係には存在し得ない。故に隣人不在の救いの追求、即ちその熱心さは神のみ心(しるし)を見落とすのである。なぜならイエス・キリストの神は他者中心の神であるから。他者中心においてみ心をお示しになられるお方であるから。

新しい年、その熱心さの中心をほんの少しでも隣人の側に傾けてみたいと思う。さすれば船の中にただ一つのパンがある事と、イエスが共におられる事、それ故に希望がある事、その事に気づけるかも知れないから。

孫 裕久

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