律法と預言と福音と

マルコ9.2-13

キリスト教は、人間は自らの努力によっては救われないことを殊更強調する。その理由というべきか目的というべきか、そのひとつは「人間は須らく罪人で神の恵みによってのみ救われる」ことを伝道の柱としているからである。「」内は間違いではないが用い方は必ずしも正しくない。「努力では救われない」とは人間に限界を定めることであり、はっきり言えば人間が神にならないためである。もちろん神になるなどと思う不届きなキリスト者はいないが、自分は分かっていると勘違いしているキリスト者は少なくない。そしてその勘違いが他人を裁き罪人をつくり差別を生む。故にキリスト教は、人間は自らの努力によっては救われないことを殊更強調し戒めるのである。

モーセとエリヤとイエス。この三名は、律法と予言と福音を象徴している。すなわち聖書全体を描写しており完成された姿がそこにある(とペテロは理解した)。注意すべきは完全なものを追い求める事は間違いではないが、そこには到達できない自覚が伴っていなければならない。ペテロがその様子を見て仮小屋を三つ建てる提案したのは、その完成された姿を維持したかったのであろう。ペテロはゴールに到達してしまってる。彼はそこに留まりたいのである。

福音はイエスキリストによってもたらされた。しかしそれに至る歴史がある。モーセとエリヤはその歴史(道程)を示している。そして雲の中から「これは私の愛する子。これに聞け。」とあった。私たちはゴールを目指している。しかし自らの努力でそのゴールにたどり着くことはできない。信仰の旅路は立ち止まることを許さない。常に「これに聞け」という声に促されてる。

新会堂が完成した。するとその維持管理に心が奪われがちである(私が居る)。完成は維持を生み、維持は排除を生む。新会堂を大切にすべきではあるが大切の意味を履き違えてはならない。完成はゴールではない。ヨルダン寮のようにしっかり役立ってもらわなければ。いつの日か老朽化し新たに建て直されるその時まで。歩み続けるのである。

孫 裕久

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