最後の者

マルコ 9.33-37

「いちばん先になりたい者は、すべての人が後(最後)になり、すべての人に仕える者になりなさい」(マルコ9.35)

これは急がば回れという類の意味ではない。この世で最後を行けば、後から神の国で先を貰えるのではなく、最後が先なのだ。逆転している。

イエスが言わんとしている(この世で)先を行く者は善人である。人々は善人となり神の祝福(先)を受けようと努力している。しかしこの後先が結果的に罪人を生んでいる。とイエスはこれまでの経験から学んだのであろう。

現代も目に見えない空気のような善人・罪人、好かれる人・嫌われる人等の序列で満ち満ちている。大多数の人が善人であり好かれることを望みそのように努力している。自分はそうではないと主張する人も罪人となり積極的に嫌われたいとは思わないし、無意識レベルではやはり大多数の範疇にある。そして罪を働いた者が罪人であるように、嫌われる原因を作ったのは嫌われる人その者である。そんなことは自明であるがしかし、これだけは声を大にして申し上げる。福音の着地点はそこにはない。繰り返すが、嫌われているのは嫌われるだけの事をした結果である。しかし、であるならばやはり嫌われ者は嫌われないために善人になる努力を重ね先を目指すしか救いがないのである。善人なる努力を重ねることは悪いことではない。むしろ良いことである。さらに言えば他人を傷つけたり不快な思いにさせないため、その努力は続けるべきである。しかし、しかしである。その努力とイエス・キリストによってもたらされた福音とには一切の関係はない、否関係を持たせてはならないのである。そこに先に行きたければ後に行けというイエスの真意がある。

イエスは罪人の友となり、罪人の罪を担われた。ここに福音の本質がある。罪人を美化してはならない。この罪人とは誰か?序列の最後に並んでいる者である。この最後の者とは給食に並ぶ列の最後という類のものではない。嫌われる原因をつくったのがその本人であるように、その列の最後に並ぶ原因を作ったのもその本人である。彼は最後に並ぶべくして最後に並んでいる。

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後(最後)になり、すべての人に仕える者になりなさい」

すべてに仕えることなど出来るわけがない。聖書において「すべて」という言葉は特別な意味で用いられている。それは単に全員とか万民という意味ではなく、数の内に覚えられなかった忘れられている存在をも含んでという所に強調点がある。すなわち極論するなら、自分自身が最後尾に並んで、その目の前にいる人に仕えるという意味である。イエスもそうして罪人の一人として数えられた。

大切なのは嫌われ者に、その原因を懇切丁寧に説明(言葉)してさしあげることではなく、その友になる(事実)ことである。キリスト教会が目指しているのはそこであって最早説明ではない。残念ながらその説明(言葉)は嫌われ者をより頑なにし自分の序列を上げるぐらいしか効果はない。

嫌われ者の気持ち、嫌われ者が友となってもらえた喜びは、常に周囲から好意を抱かれている善い方々には、なかなか分かって頂けないものである。私は思う。しかしイエスは分かってくれた。故に罪人は救われました。

孫 裕久

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