あなたに欠けているもの

マルコ10:17-31

「善い先生。永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(10.17)

先ずイエスはこの「善い」という言葉が気に入らない。善い人になる努力を積み重ねその結果救われるのであればイエスの十字架は無用である。

「あの人は善い人だよね。」我々は日常でいとも安易にそんな言葉を口にする。確かにそれは肯定であるが、一方で脳裏にあってしかし言葉にはしなかったあの悪い人を同時に否定している。善いか悪いか、福音のテーマは最早そこにはない。

その人がたくさんの財産を持っていたことと律法を遵守出来たこととは無関係ではない。それ故イエスは彼に持ち物を売り払って貧しい人々に施しなさいと言った。その時彼ははじめてもう一方の手に握りしめていたもの(財産)と、それに依拠してきたことを自覚したのである。

おそらく彼は福音書の登場人物において善い人の代表者であろう。誰からも好意を持たれる本当に善い人なのである。そしてそれは何ら否定されることではない。しかし残念ながらマルコはそんな彼を無理解の代表者として描いている。善い人であるのは良いことである。誰もが善い人になればと思う。しかしイエスが理解を求めているものはその「善い」とされる所にはない。あえて言えば彼は善い人であるが故に、その善さの故に理解できていないものがある。彼の視界には善い先生らは入っているが、自分の救いに無関係な後方にいる者たちは入っていないのだ。イエスの関心は彼の視野にはない。

彼に決定的に欠けているもの、それは最後尾に並ぶ隣人である。自分の救いを追求し「善い」を求めてきたが、そこに最後尾の隣人はいない。弟子らは全てを捨ててイエスに従った。しかしその代償を求める所(10.28)に彼らも善い人と同様、隣人が欠落している。

イエスは最後尾に並ぶ隣人との出会いと交わりの中で学び理解を深めてきた。であるならば我々がこの無理解から脱出(Exodus)するためには最後尾の隣人なしに救いの道はないのではなかろうか。

孫 裕久

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