塩を持つ

マルコ9:41-50

本章の結論は、これらの小さい者の一人をつまずかせてはならない(9.42)、互いに平和に過ごしなさい、そのために自分自身の内に塩を持ちなさい、(9.50)である。

極めてシンプルな内容であるがこのテキストを複雑にしているのは、次の戒めが挿入されている点にある。

もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方が良い。(10.43)

以上を切り結ぶ手がかりは、イエスが弟子の無理解を諭すために「一番先になりたいものは、すべての人の後に・・・」(9.35)、とする教えにある。

イエスの弟子に限らず我々キリスト者の無理解とは、自分の片手は無自覚に世俗を握りしめながら、一方は神に救いを求める手を差し出している滑稽な姿に喩えることが出来る。しかし一番先になりたいなら、後になれと言われた時、人ははじめて自分が本当に拠り所にしている存在(片手が無自覚に握りしめていたもの)を自覚する。(参考:マルコ10.22)それは残念ながら十字架ではなく、富、人脈、学歴、実力、社会的位置などである。それを握りしめている事自体を悪と呼べる根拠はない。それが普通の人間である。しかしイエスの命じる、すべての人の後になろうと思うなら我々は次のことに無理解であってはならない。

これらの小さな者の一人とは(この世的には)神の国から最も遠い後の方にいる人々である。すべての人々の後に・・・とは、この人々の後に着くことを意味している。そこでもしその手の握りしめているものがその後に行くことを躊躇させるなら一層のことその手を切り捨てなさいという事である。

これらの小さな者の一人をつまずかせず(切り捨てず)互いに平和に過ごす為に(その握りしめているものを捨てて)塩を持てとイエスは勧める。塩とはなくてならないものの象徴であるが何を比喩したものであろうか。それは隣人である。しかも前の方ではなく後ろの方にいる隣人。小さき者そのものが互いに平和に暮らす上で無くてならない存在(塩)ではないだろうか。

孫 裕久

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