子どものように

マルコ10:13-16

長年病に苦しんだ女がイエスに触れて癒やされた(マルコ5.25~)。それは彼女がそれを信じた信仰の結果であって触れた事は付属的に過ぎない。しかし人々の間では触れる事がひとり歩きした。弟子たちが子どもを連れて来た人々を叱ったのは、信仰を伴わずイエスに触れようとする人々の姿勢にあった。決して子どもそのものを邪魔扱いした訳ではない。しかしイエスはこの弟子たちの行動を厳しく戒めたのである。

イエスから見れば、無理解な者が如何ほどか理解しているつもりで無理解な者を叱りつけているように見えたのであろう。誰であれ且つ理解の程度によらずイエスに近づく道を阻むことは許されない。

「子どものように神の国を受け入れる」(10.15)とは前節の離縁のテキストと無関係とは思えない。神とイスラエルの関係は夫婦関係に比喩され、イエスラエルの罪は姦通罪にあたる。即ちイスラエルは他の神々を拝んだ。これに対して子ども(幼子、乳飲み子)は無理解且つ無力ではあるが母以外に母を知らない。何も分かっていないが子どもはその母の他命の道なきことを知っている。子どものようにとは、それである。

資格によってイエスに触れられる訳ではない。すなわち君たちはまだイエスに触れていただく資格はないというその理解は、神の前に無理解なのだ。イエスに触れていただこうとするその道を、何人も遮ることができない。むしろ何の理解がなくとも、そこに子どものように求め受け入れるその姿勢を神は祝福する。

決して理解する必要などないという訳ではない。学び理解を深めて参りましょう。しかしその学びと理解の積み重ねによって、神に接近していると考えるならば、それは大きな無理解なのだ。そしてその無理解こそが序列をつくり罪人を生んでいる事を私たちは決して忘れてはならない。

孫 裕久

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