最後尾の気持

マルコ10:1-12

「あなたは未受洗者陪餐を是とするか?非とするか?」。そんなたった1つの問いで、その人物を色分けしてしまっているのが教団の現実である。そしてこれと同質の問いが巷に溢れている。これに是と答えるか?非と答えるか?はてまた上手にはぐらかすか?回答者は自分の将来にとって有益な答えを選択する。この問答には本質の欠片もない。そもそも問いが間違っている。間違っている問いに答えは存在しない。否、大切なのは答えではなく神の前に正しい問いを立てる所にある。

「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」(10.2)

イエスは今まさにこの是非を問われその答えをもって色分けされようとしている。離縁状とは夫に与えられた権利であり、姦通罪は妻を裁くための罪状である。すなわち離縁に関する議論は夫(男)の自己正当化と妻(女)を裁くためのものに過ぎない。10.5~12にイエスの回答が3つ紹介されている。①イエスは夫が離縁状を出す正当性を否定し、②夫に姦通罪を適用し、③妻に離縁状を出す権利を認めてる。

その問いの是非をもって自らを色分けせんとする輩に対し、イエスは女の気持を答えた。即ち最後尾から語った。

所詮、男は女にはなれない。日本人は在日朝鮮人にはなれない。被差別部落民でないものが被差別部落民になれる訳がない。しかし今自分が立っている位置から振り返って最後尾に近づいて行くことは出来るし、全く同じ位置に立てないまでもその近くを一緒に歩くことはできる。前方に留まって後方についてうんちくを語るものは大勢いる。しかしそこから見える後方と後方から見えるそれは違う。最後尾から何が見えるか?それはそこに立って見ないと分からない。最後尾は全てが見える。

神は人と成り、人並み以上に孤独や悲しみ苦痛を味わった。神は最後尾に下って人となられた。聖書はこれを真実という。

先ずは正しい問いを持つことである。そして是非をもって色分けせんとする誤った問いに(即ちこの世に)、最後尾の気持をもって答えよう。そのために我らは先ではなく後を目指しているのだ。

孫 裕久

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