不安と誘惑

マルコ11.12-19

イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を得る者の腰掛けをひっくり返された。また境内を通ってものを運ぶこともお許しにならなかった。(マルコ11:15-16)

いわゆる「宮清め」である。これは現代に置き換えるなら、浅草寺の仲見世を荒らすような大事件であった。イエスは境内のこの様子を見て「強盗の巣」と非難し、本来神殿は「祈りの家」である教えた。

しかし両替や奉納品の販売は巡礼者にとって重宝されており神殿側にとっても貴重な収入源であった。イエスの指摘通り神殿は祈りの家であるが、それを維持管理する予算収入、巡礼者の利便性などを考慮することは現実問題としてそれ程悪とよべるものではない。にも関わらずイエスの憤慨ぶりは何としたことか。

この両替人や物売りは異邦人の前庭に座っていた。ここは境内ではあるがユダヤ人にとって聖なる場所ではない。いわば境内であって境内ではない。しかし異邦人改宗者はそこで参拝し祈りを捧げる。その横で貨幣は両替され、ものが売り買いされている。騒がしい雑音の中で祈りを捧げる異邦人の姿がイエスには見えたのであろう。

会堂建築は新会堂が建って終わりではない。これを維持して行かねばならない。しかしそのことを気にかけてばかりいると、小さなしかし大切な何かを見落としてしまうかも知れない。

この世に不安はつきものでそれを解消するために現実的な策を講じるのは致し方ない一面を持っている。しかし教会を支えているのは祈りである根本を忘れてはならない。それを忘れる時、ユダヤ人には異邦人の祈る姿が見えなかったように、私たちも大切な何かを見落としてしまうのである。

孫 裕久

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