受難のはじまり

マルコ11.1-11

イエスは大歓迎の内にエルサレムに入場した。しかし皮肉にもここから受難物語が幕開ける。そして実はその幕開けに相応しい様子がここに描かれている。

人々が歓迎したのはユダヤをローマの支配から解放しダビデ王朝を再興する強い王であった。彼らはイエスにその姿を見たのであるが、しかし子ろばに乗っておられるその意味を理解しなかった。

高ぶることなく、ろばに乗って来る。

雌ろばの子であるろばに乗って。(ゼカリヤ書9:9)

イエスは力を振るう王ではない(権力の座につく王ではない)。人々が求める力をイエスは持たない。この無理解がイエスを受難へと誘うのであるが、しかしこのようにして実現する受難(十字架)こそがイエスが成し遂げんとする救済であり勝利なのだ。

イエスは真に王としてエルサレムに入場した。その歓迎ぶりは真にそれに相応しい。しかし求めるものと成し遂げんとするものに大きな隔たりがあり、その隔たりを知る者はイエスの他誰もいなかった。

イエスには人々の歓声がどのように聞こえていたのであろうか。この歓声は、やがて自分を十字架へと追いやる罵声に変わることをイエスは知っている。

自分を歓迎する者が自分を死へと追いやる。しかしその死は自分を死へと追いやるその者らを救うためであるならば、この歓迎は御心として然りとすべきか。子ろばに乗るイエスの心中を思いはかれば、これに勝る受難物語の幕開けがあるだろうか

孫 裕久

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