権威に訴える偽り

マルコ11.27-33

「これはK.バルトも言っていることである」という論調を「権威に訴える論証」というらしい。それは内容の吟味を待つことなくK.バルトという偉い神学者の権威によって真とされる。この権威を根拠にした論証は専ら真偽の証明に用いられる。証明といっても論理的ではなく権威がそれを真としまた偽とする。ではその真偽を明らかにする目的を更に追求するならば自己正当化・従属と排除以外、今の所私には見当たらない。

「教憲教規によれば未受洗者陪餐は違法である」との主張は権威に訴える論証の類である。何故なら教団の教師は信仰告白と教憲教規の制約のもとに認められた役職であるから。

何の権威によって(誰の許可を得て)この河川敷に住んでいるのか?即ち不法占拠する正当性を問われるなら答えは立退く他ない。しかし何故此処に暮らしているのか?と問われるなら、歴史をひも解きそこから意味のある対話が始まる。未受洗者陪餐の問題もまた然りである。

どうして、この人は生まれつき目が見えないのか?この模範解答も律法という権威に訴える論証である。イエスはこのような類の議論に嫌気を刺したのであろう。そこからは何も生まれないから。

エルサレム神殿で教えを説くイエスに神殿当局者らは「何の権威によって」と尋ねた。ヨハネのバプテスマを用いて問い返したのは彼らの問いを煙に巻くためで特別深い意味を求める必要はない。イエスにとって無意味な議論を上手に回避しただけに過ぎない。しかし著者マルコはそれでも、ここで「権威」という言葉への注目を読者に要求している。それは既に見た(1:27)「権威ある新しい教えだ」という一節に立ち返ることだ。

「何の権威によって」という問に敢えて答えるならば、権威とはあやかるものではなく、言葉(教え)が事実と成り、人々はそこに権威を見たのだ。

権威が言葉に真を付与するのではなく、事実が人々に真の権威(神の御心)を示していくのである。み言葉を宣べ伝えるとはそういうことなのだ。

孫 裕久

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