祈りある生活

マルコ11.20-26

だから、言っておく。祈り求めるものは全て既に得られたと信じなさい。そうすれば、その通りになる。(11.24)

祈りは、未だ実現していないものを待望する。しかしイエスはそれが既に得られたと信じなさいと教えている。補足すればこれは、その祈りがやがて実現することを前提に今を生きるということである

祈りとは自然科学的に確証なきものである。もしかしたら叶えられないかも知れない。それはまるで探しものをしながら「もしかしたらこの部屋ではなく、あの部屋に置いたかも知れない」という疑いを抱きながらこの部屋を探すようなものだ。一方、その祈りがやがて実現することを前提にとは、未だ見つかってはいながこの部屋にあることは「分かっている」状況で探すようなものである。

祈りある生活とは毎日祈るだけではない。その祈りを生きるということである。もしかしたらこの祈りは実現しないかも知れない可能性を残しながら、どちらに転んでも大丈夫な今を生きるのではなく、それは既に得られたと信じて、 ― 即ち、探しものは未だ見つかってはいないが、この部屋にあることは「分かっている」 ― それを前提にそれに向かって生きる生活。それが祈りある生活である。

イエスはこの教えを隣人に対する赦しで結んでいる。イエスの祈りの中心は和解である。人は和解できますようにと祈りながら「和解できないかも知れない」という不安を抱いている。しかしイエスは教える。「だから、言っておく。祈り求めるものは全て既に得られたと信じなさい。そうすれば、その通りになる。」「探しなさいそうすれば見つかる。」これは、その祈りがやがて実現することを前提に今を生きるということである。

孫 裕久

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