正当化する罪

創世記3:8−13

罪について、聖書が問題にしているのは律法を犯す罪ではなく、またそれを隠蔽する罪でもない。もちろんそれらを容認している訳ではないがそういう罪から人間を救済するところに聖書の主題がある。しかし救いようのないのが、罪を正当化する罪である。

「神は完全である」とは人間の不完全を意味している。人間は罪を犯す故に人間である。人間は罪を犯しそれを隠蔽する。「悔改めよ」とはアダムに呼びかける神の声に等しい。それは罪を隠すのではなく罪人であるが故に汝はわたしの前に立てとする招きでありこれが救済の本質である。

隠蔽は罪の自覚の裏返しである。しかし罪の正当化は善悪を掌握し神の支配から独立する。それは神の裁きをより善い他の神に(その神とは善悪を思い通りにできる自分自身なのであるが)上訴して神を否定するという救いようのない罪なのだ。

農夫たちが地主の息子を殺害したのはぶどう園そのものを奪い収穫を私物化した罪を正当化するものであった。これはイエスを十字架に架ける罪を喩える受難物語である。イエスの殺害は人間が自らを正当化する所業であり厳しくいえば人間による神の暗殺である。そして自ら神となる。

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」(12.10)。

この意味は、にもかかわらずその救いようのない罪からも人間を救済しようとする神の意思に他ならない。

この世に罪の正当化がはびこっている。その罪の犠牲者が後をたたない。まさに暗黒である。しかし神はお見捨てになっていない。そのような救いようのない罪によって生み出された隅の頭石がそのしるしである。

孫 裕久

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