生きている者の神

マルコ12:18-27

復活を認めないサドカイ派の人々は、義兄弟結婚による復活の矛盾点を材料にイエスに論争を持ちかけた。これに対してイエスは、復活後は天使のようになって世俗の慣習に囚われないこと、また族長たちは既に復活して生きている事を論証し反論した。この論争は原始教会の復活信仰に対する批判への模擬解答であったと考えられている。故に観念的で学び得るものがあまり見当たらない。しかし「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」(12.27)。という一節はその文脈とは別にして輝きを放っている。

映画「三島由紀夫VS東大全共闘」を観た。全共闘側の論客芥(あくた)と三島との討論を中心に描かれていた。双方の主張的内容は別にして、素直に感じたものは、芥は観念的で三島は具体的だった。言い換えれば芥は普遍的で三島は断片的であった。昭和天皇との出会いと崇拝、そして日本人に固執する三島を芥はバッサリと切り捨てた。

三島の立ち位置を共にすることは出来ないが私は三島に共感する所が少なくなかった。それは彼が自分の限界を自覚した上でそれを自ら承認する覚悟のようなものであった。一方私は芥の言葉に血の通った人間の生活の座を感じ取れなかった。それは確かに具体的な事実から出発している筈だが、既にその闘争とその方法論の正当性(正義)を明確にする所に力点があるように感じた。平たく言えば三島は誰のために闘うかであり、芥は何のために闘うか、であったと言える。やかましく言えば、三島は生きるために闘うのであり、芥は闘うための正義を求めた、否必要であった。

復活論争の模擬解答は復活の正当性を死守する所にあって、復活のリアリティーがない。だから面白くない。内容は確かに一番大切であるが、それが当事者(隣人)から遊離した所で正当性というパズルを組み合わせることに熱中すると本末転倒する。それは当事者にとってどうでも良いことであるから。

私も河川敷における宣教の正当性を見つけることに熱心であった時期があった。しかしそれは河川敷に暮らす人々にはどうでもよいことであった。三島由紀夫に言わせるなら、私は河川敷という事実と限界を認めるのに些か時間を要した。

神は生きている者の神であるとは、全知全能神とか、正義の神とか、恵みの神とか、そういう普遍性の神ではなく、ヤコブの神とかイエス・キリストの神という限界つけられた断片の神であり、今生きている者、即ちこの私たちの生と命という現実に直接交わる神であるという事ではないだろうか。故に教会もキリスト者も普遍的な解答の要求から自由になって、安心して限界を認め、その隣人と交わる断片を復活の主と共に生き生きと生かされて行こうではないか。

孫 裕久

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