マルコ12:28-34
「あなたは神の国から遠くない」(マルコ12:34)、とは褒め言葉ではない。
イエスラエルにとって第一の掟は<申命記:6:4-9>に記されている通り、寝ても覚めても主の名を覚え主を愛することである。イエスはこれに第二の掟を加えた「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19:18)。これを称賛した律法学者への返答が冒頭のイエスの言葉である。
イエスの教えは言葉が事実となる所にその新しさがある。神を愛する第一の掟(言葉)を、隣人を愛することで事実への道は開かれた。しかしこの隣人愛を実現するのは困難を極める。
レビ記19:18に記される掟は厳密には次通りである。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」
即ち、そもそもこの隣人愛とは復讐や恨みなど敵意を抑止する為に定められた掟なのだ。噛み砕いて解釈するなら「今、復讐したいであろう。今、恨みを抱いているであろう。しかし愛で乗り越えろ」という戒めである。その愛とは、即ち敵意に勝る力であり、レビ記が要求するこの愛が本来求められる場とは敵意に満ちており、言い換えるならそこは戦場であり、戦場であるが故に(兵器ではなく)そこに愛の発動が要求されている。即ち愛とは敵意に勝ることであり、突き詰めるなら愛とは敵を愛する所に終着する。
然るにこの実現は困難極まりないが、不可能とまでは言えない。M.L.キング牧師には夢があった。白人への敵意に勝る夢が彼にはあった。愛は夢ではないが、キングの夢は敵意に勝る愛であった。等しく使徒パウロの愛は如何に。それは忍耐である。愛は忍耐ではないが、パウロは「信じて待つ」その忍耐で敵意に勝った。パウロにとって忍耐は愛であった。神の国とはその夢や忍耐らが発動されている事実に共生している。
さて、私は神の国から遠くない所に在るのか?神の国に生きているのか?そもそも私に愛はあるのか?
孫 裕久
孫先生
ご無沙汰しております。札幌の石井美雪です。
コロナ禍で東京に行くことが難しく教会をお訪ねできず、後日、動画で礼拝に出席させていただいていました。7月4日以降は登録が必要になったことを知りました。
主日礼拝は真駒内教会もオンラインと公開の二本立てで、後日配信をしていますが、
川崎戸出教会では今後その計画はありますか。検討してくださると幸いです。
皆さまの健康とお働きが祝福されますようにお祈りいたします。