比べない

マルコ12:38-44

イエスは律法学者の偽善を見抜いた。彼らはいつの間にか他者よりも偉く神の国に近い(先方にある)ことを望み、後方にいる者たちを食い物にしていた。

社会に生きる人間は須らく他者との比較なしに「私」を認識することは出来ない。また他者を認識(評価)する時も「私」やその他の者と比較している。聖書は差別や対立というものの根子に「比べる」というものを見ている。人間同士が比べることによって神に背を向け神の恵みを虚しくしている。聖書はそれを罪と呼ぶ。

聖書には比べる物語が登場する。イエスは貧しいやもめが献げた僅かな賽銭が大金持ちのそれに勝ると評価した。これも見かけ上は比べている訳であるが、イエスはここで世間が比べているそれを非難している。

死ぬからこそ生きるが存在するように、あなたがいるからこそ「私」は存在する。「私」はあなたなしに存在し得ない関係にある以上必然的に比べてしまっている。それを悪という根拠はないが、結局そこから差別や対立が生まれている。このどうしようもない縄目から自由になる為イエスが辿り着いた境地が「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさい」(マルコ9.35)。そして「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ12.31)であった。

即ち、これは「私」を捨てるということに他ならない。「私」を捨てることなしに人間は比べる事から自由になることは出来ない。十字架はその必然的結果に過ぎなかった。

イエスは言った。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(マルコ8.34)。この戒めは実行不可能に近い。しかし挑戦し続けていこう。隣人を自分にように愛することに挑戦し続けていこう。主イエスの十字架にあやかって・・・。

孫 裕久

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