主の恵み

マルコ14:27-31

イエスは弟子たちが自分を見捨てることを知っていた(14.27)。具体的に言えば、流石に十字架まではついて来られない事を知っていた。根本的に言えば、神は人間の弱さを知っていた。弟子は主を見捨てた。しかし主はその弟子を見捨てなかった。それが知っていたという意味である。

イエスは復活し

彼らより先に/彼らの逃亡先で/自分を見捨てた彼らを/失望と罪悪感に苛まれるその彼らの希望として/

待っていて下さる。

(14.28)

復活は希望でありその希望は十字架の先にあることを知っている。しかし我々の場合、消極的に言えば、それを知ってはいても十字架を超えて行くことは出来ない。積極的に言えば、例えそれは口先だけと揶揄(やゆ)されようとも、いのちがけで(14.31)主に従うものは十字架の前でつまずくのである。むしろこれを直視しないものは夢想の中で十字架を容易く超えてゆく。しかしそこに復活の主はおられない。主はつまずいた者の逃亡先(帰省先)であるガリラヤで待っておられるのは聖書が証言している通りである。

それは愛する我が子の失敗する(つまずく)様子を忍耐して見守る親の気持ちに少し近い。聖書の中に求めるなら放蕩息子の帰りを待つ親の気持ちにもう少し近い。しかしその近さに永遠の距離を覚えるのは、主がその命と引換えにしてまでもそのつまずきを見守り、その帰りを待っていて下さる約束にある。そこに一点の曇りなき愛がある。「神は愛である」とする所以(ゆえん)はそこにあるのだ。

そういう信仰を抱いて生きる主イエスの弟子の生命は恵みに他ならない。十字架の前でつまずいた故にその生命は恵み足り得るのだ。私たちは主の弟子ではないか。弟子は主の恵みによって生かされている。その恵みによって新たな会堂を与えられた。故にその生命をこの会堂を主の恵みに相応しく用いて参りましょう。

孫 裕久

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