主の食卓を囲む

マルコ14:10-26

イエスはエルサレムで弟子たちと過ぎ越しの食事をなされた。これがイエスにとって最後の晩餐となった。イエスはその食事の席でこの中に裏切り者がいることを明かした。すると弟子たちは「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。自分が裏切り者であるか否かは自分自身が一番良く知っている筈なのに、弟子たちのこの動揺は何を意味するのか。

福音書は既に二度イエスの殺害予告に言及している。その危機迫る空気を誰もが感じていたであろう。即ちこの場にいる誰もがイスカリオテのユダになる可能性にあった。イエスにとって最後の晩餐、そこには裏切り疑い動揺が渦巻いている。後に聖餐伝承となるパンとぶどう酒による新しい約束はこのような空気の中でなされた。イエスにとっては何とも苦い最後の晩餐である。しかし主イエスは義人ではなく罪人を招く方であることを改めて覚えるとき、これは真に主の晩餐に相応しいのではないか。

家族で囲む日毎の食卓はいつも和気あいあいとは限らない。時には重い空気が漂う沈黙の食卓もある。しかし最後の晩餐の主の心に想いを寄せるとき、それでも私たちは食卓を囲み主の約束を憶えて感謝の祈りを捧げ共に食するのである。然り、キリスト者とは今日も主の食卓を囲む共同体なのだ。

孫 裕久

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