真実の愚かさ

マルコ14:1-9

彼女がとがめを受けたのは香油を無駄遣いしたからではない。彼女は女でしかも卑しき身分※であったからである。確かにそれは無駄使いかもしれない。しかし問題の本質はそこにない。そもそも何が問題なのか?そこに本質の気配がある。

彼女をとがめる彼らは無駄使いの証拠を提出する。「三百デナリオン以上にも売って、貧しい人々に施すことができたのに(3.5)」。確かに金銭に換えて貧しい人々に施すことは御心に適う。しかし、もし香油を注いだのが祭司や律法学者、大好きな人気アイドルでも彼らは無駄使いをとがめたであろうか。もしそうでないとするならこの無駄使いは問題の本質ではない。

確かにこのテキストの関心はそこにはない。しかしこの事件は間違いなく史実あり、とがめを受ける女をイエスが養護したのも事実であろう。この時、イエスは無駄使いを事件としていない。一人の女が罪人として集中砲火を受けている、それがイエスにとって事件であり問題であった。

善悪の木の実を食べたものは、その事件の甘さ辛さをつぶやいて当事者を評価したがる。しかしそのつぶやきは客観的ではなく自分が欲する結論に都合良く利用したデーターに過ぎない。その結論とは自分に有利か不利か損か得か。彼らはそこで善悪を取捨しているだけに過ぎないのだ。イエスが批判する律法学者らがうんちくを垂れる善悪とはその程度のものなのだ。

そんなものの犠牲者が彼女であった。故にイエスは彼女を養護した。もし律法学者が香油を注ぎ、誰一人その無駄使いをとがめないなら、イエスは代わって厳しく戒めたであろう。「三百デナリオン以上にも売って・・・」と。

確かにそれは無駄使いである。金メダルをかじったのは不適切である。しかし善悪の木の実を食べてうんちくをつぶやき、罪人・嫌われ者を食い物にする輩(やから)たちに主イエスはくみしない。むしろとがめを受ける側に身を寄せる。たとえそれが無駄使いでも不適切でも。自分には何の得もないのに。故に愚かなのだ。だから真実なのだ。そして、やはり教会はかくありたいのだ。

※     マルコによる「重い皮膚病の人シモンの家」(14.3)という場所設定がその場に居合わせたメンバーの身分等を間接的に伝えようとしている。

孫 裕久

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