沈黙と告白

マルコ14:53-65

イエスは捕らえられ即刻裁判にかけられた。この裁判はイエスを死刑にする為のものでありイエスにとって不利な証言(偽証)が供述された。しかしイエスは弁明せず沈黙を守った。ところが最後に大祭司が「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と問いイエスはこれを認めて死刑が確定した(14.61-62)。これは信仰告白である。信仰告白とはこの世の権力に対し自らと神との関係について命がけで答えるものである。そしてペトロは同じくイエスとの関係を問われこれを否定した(14.68)。イエスは肯定して死刑となり、ペトロは否定して生き延びた。ここに十字架による救いの基本構造が示されている。人間は十字架の前につまずく(14.27)。しかしメシアはこれに代わって十字架に架かった。ペトロはこの意味を身をもって体験し血と骨で理解した。

80年代指紋押捺反対運動の最中、指紋押捺を拒否する同胞が見せしめとして捕らえられた。私はその陰で息を潜めて指紋を押した。しかし拒否する同胞らは私を責めなかった。「今指紋を押さねばならない同胞の為にも自分は押捺を拒否する」と言った女子高生の言葉に私は救われた。

私はペトロを非難することは出来ない。あのペトロは私である。ペトロは十字架の前でつまずいた。イエスの十字架はそのペトロのためにある。そしてペトロは律法ではなく恵みによって生かされるものとなった。

教会は、沈黙すべきは口が裂けても沈黙を守り告白すべきは実存をかけて告白する。かくして自分を隠して生きざるを得ない人々の救いの居場所となるのである。

孫 裕久

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