知識のはじめ

マルコ14:43-52

イエスは逃げも隠れもしなかった。にも関わらず彼らは闇夜に紛れてイエスを捕らえに来た。それは不意を突いた夜討ちではない。彼らは人目を畏れた。

箴言に「神を畏れることは知識のはじめ」とあるが、人は如何にして神を畏れるのか。それは人を畏れない事をもって他すべがない。神を畏れるとは人を畏れないことであり、人を畏れる者は神を畏れていない。即ちそれは神を畏れぬ所業であった。そこにこの問題の本質がある。

人間は人を畏れるが故に問題を難しくしている。その畏れが取り去られる時、即ち神を畏れる時、そこに明快な答えが示される。それが知識のはじめである。しかし人を畏れぬ者などいない。

受難物語を語ると何故か歯切れが悪くなる。言い切ることをさせてくれない。然りといえば否と攻めたてられ。否といえば然りが顔を覗かせる。信仰は十字架を肯定するが、釘に刺された激痛はその信仰を否定する。さりとて激痛がもたらす否定が答えとして自立できないことも知っている。然りは否を突きつけられ。否は然りを欲している。

神を畏れることは知識のはじめと知りながら人を畏れている事実がある。受難物語はその事実を直視させる。そしてその先に見え隠れするのが自分を捨てきれない弱さである。その弱さによって私は人を畏れ、その畏れが問題を難しくして壁は微動たりしない。

私は自分を捨てきる事ができない。しかしその瞬間その一瞬だけでも自分を捨てるなら、この動かぬ壁が1μmぐらいは動くかも知れない。聡明で美しい神の知識によって。「隣人を自分のように愛しなさい」

孫 裕久

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