立ちつくす

マルコ14:32-42

「しかし私が願うことではなく御心にかなうことが行われますように。」(マルコ14.36)

田川健三氏は著書『立ちつくす思想』で、イエスのこの祈りを宗教的諦めと表現している。この諦めとは消極的な意味ではなく全てを神の意思として承認し、肯定し、身にひき受ける態度である。そして田川氏はこの宗教的諦めと、十字架上での「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのか」というイエスの絶叫と合わせ読み、その矛盾に意味を認める。

前者は十字架を肯定し後者は否定している。さらに言えば前者は希望であり後者は絶望である。やや乱暴なまとめ方をすれば、この相容れない両者が共存する故にキリスト者は十字架の前で立ち尽くすのだとするのが田川氏の「立ちつくす思想」である。

この「立ちつくす」とは、動かないと分かっている壁を押し続けている。壁は動かないのでつまづきを繰り返す。まさに悲劇的な人間である。しかし田川氏は「壁の前から逃げ出さない、また、できもしなくせに通り抜けたと夢想することもしない」その立ち尽くす態度に積極的な革新の姿勢を認めようとしている。

人間は十字架の前でつまづき逃げ出す。しかし神の恵みは逃げ出した私を迎え入れその人の弱さを承認する。そこに救いがある。しかしそこで救いは完了しない。救いとは救いに至る道のりを歩む連続性にある。壁の前に立ち尽くす。それは愚かに見えるかも知れない。確かに悲劇的ともいえる。しかし何度つまづこうと、神の恵みが我々をその壁の前に誘う。だから絶叫しながらも希望を抱きそこに立ちつくしているのだ。

田川氏は『立ちつくす思想』の最後をつぎのように結んでいる。

真に社会を転倒しうる者は、「待ち」、立ちつくし、押し続ける者です。自分の生の基本的なたたずまいにおいて「待つ」ことを知っている者ならば、自分の一生を棒にふっても、次の世代のために新しい社会を待つことができるはずなのです。(1968年7月)

孫 裕久

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