自分と出遭う場所

マルコ14:66-72

それは絶望的ともいえる。命を賭けた誓いが鶏の鳴き声とともに脆くも崩れ去った。ペトロは三度イエスを否んだ。ペトロの誓いは嘘ではない。しかし十字架の前では真理も正義も愛もその限界が明らかとなる。

律法によって自らを戒める生き方を誰が批判できよう。しかしイエスが最後的に到達したものはそれ以上に隣人のために自分を用いる所にあった。即ちイエスのテーマは私ではなく隣人の救いなのだ。

しかし隣人を自分のように愛していくなら、行き着く所はあのペトロが味わった弱さと限界である。そこで見たくもない醜い自分と出遭う。しかし神はそれを裁かない。神はそこでこう言われる。「それで良いから、隣人を自分のように愛していきなさい」

私は何者なのか?私は如何に生きるべきなのか?何のために生きるのか?生きるとは何なのか?その答えは書物の中にはない。牧師の説教にもない。激しい議論の末にもない。偉人・聖人の生き様にさえない。それはペトロの味わったあの絶望的ともいえるあそこにあるのだ。あそこに行かなければ。あそこが主イエスをメシアと告白する私たちの救いのスタートラインなのだ。あそこで言葉は脆くも崩れ去る。しかしそこで流した涙が救いの事実を生んでいく。

主イエスは私たちをあそこまで導くために十字架に架かられた。十字架という方法以外に私たちをあそこまで導くことは出来なかったのだ。

孫 裕久

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