辱めを受けた神

マルコ15:16-32

イエスは兵士たちに侮辱を受け、十字架では祭司長らに笑い者にされた。主は十字架で人間の罪のみならず恥も担われた。

キレネ人シモンはイエスの十字架を担がされた。その光景はまるでシモンが死刑囚にように見える。シモンにとってその十字架は恥である。他人の十字架を担がされてシモンは恥をかいた。

パウロが「私は福音を恥としない」という時、それはイエス・キリストの故に負う恥を恥としないという意味である。主イエスが十字架で私たちの恥を担って下さたように、私たちも隣人の恥を自分の恥として担わねばならぬ時がある。しかしキリスト者はそれを恥としない。それがパウロの言うところの「私は福音を恥としない」という意味である。

イエスは言った。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコ9:35)

すべての人に仕えるとは最後尾にいる人に仕えるという意味であり、得てして最後尾の彼は肩を並べるには恥ずかしい存在である。故に恥ずかしさは、主に従い隣人を自分にように愛していこうとする者の必然なのだ。

人は恥ずかしさの中に自分と出会う。キリスト者はイエス・キリストの故に恥ずかしさに出会う。そしてそこに捨て切れない自分を認める。それもまたつまずきである。十字架を前にして恥ずかしさを覚える時、恥をかかねばならぬ時、主が十字架で私の恥を担って下さったことを憶えよう。キレネ人シモンが主の十字架を担いでいる姿を思い浮かべよう。そして「私は福音を恥としない」といったパウロの言葉を噛み締めよう。

孫 裕久

1件のコメント

  1. ああ しんど・・
      忙しすぎて「キリステ」教
    イエスは「あい」をなしたまえり
      エリ、エリ、して、サバクタニ
              あんのん(ペンネーム)

    青年会が活発だった頃
    青年会誌「ザイン」の12号に投稿されたある神学生の手紙である。
    私はシャイな性格なので、SOSを受け止めることが出来なかった。
    彼女は今、どうしているだろう?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です