驚くことはない

マルコ福音書16:1-8

若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架にかけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」(マルコ16:6)

ひどく驚いている婦人たちに、イエスの復活は伝えられた。その第一声が「驚くことはない」であった。復活はその事件に遭遇して驚く者に「驚くことはない」と迫ってくる。

1991年5月、私はじめてヨルダン寮を訪れた。話には聞いていたので河川敷の街自体にさほど驚きはなかった。しかしその街に生きる人々の様子に私は驚きを禁じ得なかった。「在日」にとってそれを隠すことは日常且つ当然であった。しかし土手の中で暮らす彼らはそれを隠さず、民団と総連、日本人と外国人の(街区では日常的な)確執もなかった。これは私にとって明らかに驚きであった。しかしヨルダン寮や神学校での出会いと学びによって、それが本来あるべき姿であり驚くべきことではないという新しい意識が芽生え育てられた。

驚きとは想定外の出来事が発生したときに受ける強い心的衝撃である。言い換えるなら自分の日常に当てはまらない事件との遭遇である。即ち驚く私に「驚くことはない」という復活のメッセージは、私の日常や当然を否定してくる。それは本来驚くべきことではないと迫ってくるのだ。

マルコ福音書は16章8節で終わっている。復活のイエスも登場する事なく中途半端に終わっている。マルコ福音書はある意味未完成なのだ。言い換えるならここ迄が言葉の限界なのだ。復活は言葉ではなく事件である。その事件に遭遇し我々は驚くのである。読者はその日常で復活のイエスに出会って驚き、マルコ福音書の物語は継続する。そしてその驚きに対して我々は「驚くことはない」という声を聞くのだ。それは私を驚かせた既存の当然を否定し、もはやそれに驚くことのない新しい復活の命を私が生きてマルコ福音書は完成へと向かう。かくして言葉は事実となるのである。

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