マリアの賛歌

待降節3 ルカ福音書1:39-56

降誕物語の登場人物について、ヨセフは正しい人でありザカリヤとエリザベトについては主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかったと紹介されている。しかしマリアの人となりについて聖書は沈黙している。昨日、YMCAかわさき保育園での降誕劇でマリアは心の美しい娘と紹介されていた。そして実は私たちも同様のイメージを持っている。しかし聖書を隅々まで読んでも私たちが抱くマリア像を裏付ける証言は一言も見当たらない。

一方マリアの賛歌でマリア自身が次のように告白している。

47節 わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

48節 なぜなら、主のはしための、いやしい事に、目を留めてくださったから(私訳)

48節は原文を直訳した私訳であるが「いやしい」とは確かに身分の低さを表す意味も含んでいるが品位に欠ける素行を意味している。実は史的マリアは悪評高いとまでは言わないまでもお世辞にも正しいとか非のうちどころにないと紹介できるような女性ではなかったのではなかろうか。

そこで問題はマリアが実際にどうであったかより、今マリアの品性を貶めるような言葉に触れて抱く私たちの不快感の正体である。マリアをそのような女でないとするなら、正に「そのような」とは何を指すのか。それこそイエスが友となった罪人(隣人)ではないか。そこを履き違うとマリアの賛歌が持つその尊い喜びに満ちた意味が失われる。

マリアが主をあがめるのは、自らのいやしい事に目を留めて下さったからである。(徴税人ザーカイの喜びもこれに近い)そのマリアをして誕生する救い主のもたらす神の国は、思い上がる者、権力ある者、富めるものではなく、いやしい者を高め、飢えた人を良い物で満たすのである。即ち新しい救いがここから始まるのだ。

孫 裕久

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