恥を取り去る

待降節1 ルカ福音書1:5-25

「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去って下さった。」(ルカ1:25)

主の道備えであるヨハネの誕生が予告された。そしてその予告が一人の不妊の女を救った。現代の日本でも女性は子どもを生んで一人前という考えがまだあるぐらい不妊は根深い問題を抱えている。まして女性の人権が全く尊重されていない時代や風土においてそれは人々の間で恥とされた。

恥とは「人々の間」(社会)に生まれる。「恥」の社会学的定義は複雑でその意味を無前提に語るのは少々乱暴かもしれないが、被差別部落出身者や同性愛者等、社会的少数者とされる人々に対して「人々の間」が下した恥としておきましょう。それは本来恥とされるべきものではない。がしかし残念がらその説明は必ずしもエリザベトらを救うものではない。

彼らはその恥を隠して生きている。そして願わくはその恥が取り去られることを願っている。何が正しいことか分かっていても、社会がそれに追いついていない時、その恥を取り除き、その恥を一緒に覆い隠して上げるのも愛ではなかろうか。

十数年前、弟が微笑みながら自分の運転免許証を私に見せたことがある。何を見てほしいのか、彼が運転免許を所持している事は既に知っている。見せたかったのは本籍欄であった。一瞬の戸惑いがあったが私は「おめでとう」と祝福した。しかし何がおめでたいのか、複雑な思いが心の中を通り過ぎた。エリザベトの「人々の間からわたしの恥を取り去って下さった。」という喜びの一節に接する度、そういった記憶たちを思い出す。人々の間でその恥を隠して生きている人々の隣人になっていくというのは本当に難しい。しかしこの待降節はエリザベトの喜びを共に喜び過ごそうと思う。

孫 裕久

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。