救い主を訪ねて

マタイ2:1−12

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので拝みに来たのです。」(マタイ2:2)

占星術の学者らはエルサレムに到着しヘロデ王を訪ねた。この訪問が結果的に幼児虐殺の引き金となった(2:16-18)。星に導かれた彼らは最後まで星から目をそらすべきではなかった。そこには彼らの思い込みや近道を行く現実的な判断があったといえる。

それは(特には)危機的状況下で信仰(星)を見失い現実的な判断に支配される様子に例えることが出来る。方や現実を見ることなく、机上で口先の信仰を生きるのは、絵に書いた餅である。信仰とは本来、その現実と向き合い現実の中で信仰的決断を下していくものである。しかしこれこそ口で言うは容易く現実的には難しいものなのだ。

信仰とは1か0ではない。私たちは時として星を見失う時がある。それは人間の弱さに胡座をかくことを意味しない。星は見失ってはならないが、それを罪と定めるなら私たちは星を見失う度に再び自己正当化というあの真の罪の人屋に投獄される他ない。

信仰の旅路には星を見失うこともあるのだ。大切なのは「今私は星を見失っている」というそれを認めて上げることである。見失っても良い、仕方がないというのではない。そういう事が許されていることも含めて神の恵みなのだ。その恵みにあやかって私たちは再び星を見つけることができる。そして占星術の学者らのように幼子のいる所にたどり着くのだ。

孫 裕久

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