コリントの信徒への手紙2 2:12-17
どちら選ぶことが自分に得であるか。人は自分の損得に関わる選択について不安を伴う。しかしキリスト者はある意味その不安から自由になった存在である。それはパウロのごとく、生きるにも死ぬにも主のためでありそこに選択の不安は伴わない。自らはただキリストの香りを漂わせる存在であり、それは「滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命へ至らせる香りとなる」(2.16)。自らの選択が結果を左右するのではなく全てを神がその必要に相応しく用いてくださる安心を生きている。
パウロはコリントの信徒に宛てた涙の手紙をテトスに託しトロアスでその帰り(返事)を待っていた。しかしそれを待ちきれなかった時、彼は不安のただ中にあった。それはコリントの信徒に理解を得られたか否かの不安である。その不安はトロアスに留まるかマケドニアに出向くかの選択と共にあった。
パウロは神の召命を生きるキリスト者の安心を知っている。それは自分の損得に生きるのではなく神のため(言い換えるなら隣人のため)に生きる安心である。しかし一方でパウロはトロアスで不安に陥った経験を吐露した。
キリスト者とは主のために自分を捨てる(捧げる)存在である。言葉にすれば真に難しく且つ厳しいテーマであるが、今少しそれを易しくしてもらえるなら、これ以上自分に関心を持つのではなく、隣人に関心を持つことで良いだろうか。自分の理解を得るために用いてきたエネルギーを、隣人を理解するために注いでいくことで良いだろうか。それを、主のために自分を捨てる事と解して良いだろうか。そこに安心を得るキリスト者で良いだろうか。しかしそれでも私たちは時に不安に陥る人間である。然り、私たちはキリスト者であり人間なのだ。パウロと同じように。