涙の手紙(2)

コリントの信徒への手紙2 1:23-2:4

本来イエス・キリストの使徒としての本分は「喜び(福音)のために協力する者」(1.24)である。しかし現実的に教会は福音を述べ伝えながら論争と裁きを繰り返している。何故、福音に生きる教会が論争し裁きあうのか?キリスト教会の歴史上、パウロが初めてこの矛盾に悩んだ人ではなかった。そしてある意味(コリント訪問を遅らせたのは)パウロはこの課題から距離を置き厳しく言えばその矛盾から逃げてしまったと言える。

教団内には未解決の課題をめぐる論争があり、また戒規という規則もある。本来キリスト教会に戒規は不要である。しかしそれがあるのは我々人間の弱さ(戒規という最終手段が置かれていないと不安)の結果であることを常に踏まえておかねばならない。また論争は排除を目的とするものではない。時に信仰者とはその熱心さ故に以上を置き忘れて論争し裁き排除する。出来れば喜びのための協力に専念したい。しかしこの世は避けがたい論争の一方で排除という短絡的で安易な切り札を我々人間に握らせている。

論争は対立を生み、相手を裁き排除する危険をはらんでいる。では福音は論争すべきではないという結論に我々を導くのであろうか?論争とは意見の異なる互いの説を主張して争うことである。ただその目的が単に何れの説が正しいかを争うだけであったり、又それを根拠に相手を言い負かしたり排除する限りのことであればキリスト教会に論争は不要である。

キリスト教会にとって論争とは教区形成基本方針に謳われる以下の文言に尽きる。

「我々は対立点を棚上げにしたり、性急に一つの理念・理解・方法論に統一して他を切り捨てないよう努力する。忍耐と関心をもってそれぞれの主張を聞き、謙虚に対話し、自分の立場を相対化できるよう神の助けを祈り求めることによって、合意と一致とを目指すことができると信じる。」

(教区形成基本方針より)

教会内に違いがあることを率直に認めるという選択肢の存在をパウロは未だ知らない。今コリントに行けば再び論争となり互いの信仰を支配するか、もしくは排除し合う。それを避けることをパウロは「思いやり」と言ったが、半分は嘘である。パウロは結局その課題から逃げてしまった。パウロの涙はその自覚の表れでもあったと思う。しかしその涙がやがて違いを認め合う新たな道の萌芽になったと信じたい。

孫 裕久

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