コリントの信徒への手紙2 2:5-11
「むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力つけるべきです。」(2:7)
パウロはコリントでの悲しい出来事の最終的な解決方法として「赦し」を勧めている。
この世では共同体の秩序を保つ手段として規則と罰則を用いる。私たちの生きる社会も法律が定められ、それを犯した者を罰することで保たれているといって過言ではない。
教団にも教規が定められその第8章に戒規が置かれている。その第141条によると、戒規とは「教団および教会の清潔と秩序を保ち、その徳を建てる目的をもって行なうものとする。」と記されており、教師に対しては「戒告、停職、免職、除名」、信徒に対しては「戒告、陪餐停止、除名」の処分が用意されている。すなわち教団も個人を罰することで共同体の秩序を保とうとしている。
しかしパウロによれば教会とは赦しの共同体であり、主イエスが罪人を裁くのではなく「あなたの罪は赦された」とするように赦しを土台としている。
聖書の原語で「赦し」とは「恵」から派生した言葉らしい。言葉の意味からも教会は罰を恐れて規則を守るのではなく恵みによって生かされている共同体なのだ。ここに教会の生命線がある。
規則には罰則がある。罰則のない規則は機能しない。殺すなという規則は死刑という罰則で機能する。しかし赦しには罰則がない。底のない器のようなものである。故に信じるしかない。親が子を罰ではなく愛で育てるように、そこは信じるしかないのである。規則が罰則を必要とするように赦しは信じることを要求する。信じることなしにイエス・キリストの神による赦しは成立しない。
「神を信じましょう」とは「互いに赦し合おう」という呼びかけなのだ。
孫 裕久