隣人を生かす自由

コリントの信徒への手紙2 4:1-15

パウロが自分の使徒職の証明にエルサレム教会の推薦状を用いなかったのは、彼にとっての使徒職の内容と切り離すことが出来ない問題であった。福音を宣教する上でパウロには時間の猶予はなかった。であるならば使徒として職務を速やかに遂行する上で推薦状は有効な手段であった。しかし敢えてそれを用いなかった事をパウロは使徒とその職務の証明に用いている。

本章でパウロは「文字と霊」を多用している。これは「律法と福音」に置き換えて差し支えない。即ちイエス・キリストによって律法から自由となった(覆いが取り除かれた)福音にパウロの信仰の中心がある。にも関わらず推薦状を盾にすることは文字に従わせる(隷属させる)行為であり、これは福音の自由と矛盾する。パウロが書簡の冒頭に例外なく「神のみ心によって使徒とされた」と記しているのは、人によって書かれた推薦状(文字)によるものではない事を強調している。

これは彼の召命なのだ。旧約聖書の預言者たちも、神殿から給与を貰い預言者のお墨付きを得た者たちではなかった。アモスにおいてはいち牧者であった。そんな彼らが預言者の証明としたのは神の召命(預言)であった。パウロもこの伝統に従ったと言える。

神殿の職業預言者が王や祭祀の意向に抗えなかったように、パウロの使徒職も推薦状によるならばエルサレム教会の方針に拘束されていたであろう。パウロは文字によらず主の霊によっていた故に自由であった。自己推薦に用いる文字は相手を殺し、主の霊は自身も相手も自由にする。この自由の確保こそがパウロの宣教の生命線であったと言える。

しかしこの場合、それを認めるのはやはりコリントの人々自身なのだ。そこにパウロが自由であるように、コリントの人々の自由(信仰)にそれを委ね、「わたしたちの推薦状は、あなたが自身です。(3.2)」と語りかけている。

孫 裕久

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