和解の奉仕

コリントの信徒への手紙2 5:11-21

イエス・キリストとの出会いによってパウロに生じた根本的な逆転は次の一句に尽きる。

「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないのです。」(ロマ3.20)

その根拠は「義人はいない。一人もいない。」(ロマ3.10)からである。

しかしパウロが追求するテーマが変わったわけではない。パウロのテーマは一貫して神の義であり、その神から義とされる所にある。では義人とはなれない人間が如何にして義とされるのか?(すなわち救われるのか?)それは神の恵みに他ならなかった。その恵みに感謝して預かると同時に、では如何に生きるかという新しいテーマが表出した。それが和解に生きるということである。

パウロは人間が義とされるメカニズムを律法遵守ではなく神との和解によって捉え直した。神はひとり子を和解の犠牲として捧げてくださった。すなわち人間が義と認められるのではなく罪赦されて神と和解(5.18)させていただいた事をもって「神の義を得た」(5.21)としたのである。すなわちパウロにとって義と認められるとは「神との和解を許された」と同義語である。パウロの神は和解の神である。自分自身との和解(罪を認める)、隣人との和解(関係の回復)、そして和解の奉仕者(新しく生きる)としてキリスト者は遣わされている。

我々は最早、善悪を明らかにする所にテーマを持っていない。それは通過点として在るかも知れないが結論ではない。確かにいずれプーチンは裁かれる。否裁かれねばならない。しかし我々キリスト者が神に遣わされている存在証明はロシアとクロアチアの和解であってプーチンを誹謗してその怒りを助長させることであってはならない。百歩譲って誹謗する必要があってもそこが我々の使命の着地点ではないのだ。

「つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。」(5.19)

孫 裕久

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