土の器として

コリントの信徒への手紙2 4:1-15

投手に例えるならパウロが宝(4.7)と呼んでいるものは直球である。それは変化球の混じる覆われた(4.3)投球術ではない。右の頬を打たれれば左の頬を向けるという極めてシンプルなものである。そこには人の良心(4.2)に委ねる自由があり、また人をも自由にする。

パウロはこの宝を土の器(4.7)に納めたと比喩する。土の器とはその脆さを象徴している。これは使徒職というものがその人の能力に依存するものではなく、むしろその逆でその脆さ故に神の偉大な力が明らかとなることを意味している。

直球は美しく威力はあるが、それと分かっているとこれほど安易に打てる球もない。分かりやすいが確かに脆い。しかしそれ故に真実が明らかとなるところに十字架の秘義がある。

この道は勇気が求められる。自分の心と向き合う勇気である。「心と向き合うのは勇気がいるが、その勇気を生むのも心だ」(ジャン・リュック・ピカード)。これは心を自分に置き換えると理解できる。結局の所、直球を投げるか否かは自分が決めねばならない。そして人の良心に委ねねばならない。難しくはないが、確かに勇気がいる。

イエスはゲッセマネで心と向き合った。自分と向き合った。そして神と向き合いその神に祈った。神と向き合うのは勇気がいるが、その勇気を与えくれるのも神ではなかろうか。故に勇気を下さいと神に祈ることも我々は赦されている。

我々はこの宝を土の器に持っている。故に落胆しない。脆い故の土の器であるから。即ち、この宝は自分を捨ててこその宝なのだ。

自分を捨てて自由となり、その自由が隣人を自由にする。この宝は土の器でなければ納まらない。

孫 裕久

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