真の自由

コリントの信徒への手紙2 4:16-5:10

「だから、体を住みかとしていても、体を離れていても、ひたすら主に喜ばれるものでありたい。」(コリント2 5:9)

「外なる人」は衰えても「内なる人」は日々新たにされ、見えるものは過ぎ去るが見えないものは永遠に存続するという意味は、律法をまとった自分と福音に生かされる自分を対比している。しかし本章でパウロが最後的に言いたいことは、それらを善悪に二分することではない。

パウロは以上を「地上の住みか」(律法)と「天にある永遠の住みか」(救いの完成)に言い換える。今やイエス・キリストによって福音がもたらされた。パウロはここでその救いを知ってはいるがその完成は再臨の時まで待たねばならない、やや複雑な時間帯について述べている。これは日曜日教会で神の国を先取る信徒の交わりを持ちつつ、平日はそうではないこの世の関係を過ごさざるを得ない息苦しさに例えることが出来る。こういった状態でパウロは「この地上の幕屋にあって苦しみもだえている」(5.2)。ただパウロの苦しみは、この複雑な時間帯で、ある程度律法に隷属しなければならない不自由を指しているのではない。結論的に言えば、目に見えないもの(信仰5.7)のおかげで、律法に隷属している惨めな自分を自覚出来ている事(苦しみもだえている事)にパウロはむしろ感謝しているのだ。

そして冒頭の言葉(5.9)に繋がるのであるが、善悪を二分して説明することが大切なのではなく(律法で人を裁くことではなく)、今この複雑な時間帯(再臨による救いの完成を今か今かと待っている時間帯)において、ある時は律法に隷属していようと、ある時はそれから自由であろうと、何れであれ主に喜ばれる者であろうするこれがパウロの自由なのである。

この世を見えるもの見ないものに二分することは出来るが、しかしだからといって人をそのふるいにかけることは出来いない。誰でも見えるものに支配され、見えないものに救われる双方をまとっているからだ。であるならば何れにおいても相応しく主に喜ばれる者として歩もではないかとパウロは訴えている。

親が喜ぶのは我が子が良い行いをした時だけではない。むしろ過ちを犯した時、心から「ごめんなさい」と謝る我が子ほど愛おしいものはない。

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