主は生きておられる

ルカ福音書 24.1-14

「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方は、ここにはおられない復活なさったのだ。」(ルカ24:5-6)

これは墓場でイエスの遺体が見当たらず途方にくれていた婦人たちへの復活のメッセージである。墓場は死者の眠る所であり「生きておられる方」はここにはいない、という所にこのメッセージの中心がある。復活という事件よりも「主は生きている」ことを伝えている。
旧約以来「主は生きている」ことはイスラエルの信仰の土台であった。イースターの朝はそのことを強く自覚する朝である。今私たちが生きるこの大地の上で大空の下で主は生きておられる。それが私たちキリスト者の信仰でありその信仰の故に復活の主と出会うために、また主は生きておられることを伝えるために今日という一日を生きる。
これまで私は十字架の手前からその向こう側にある復活を見つめていた。そして復活の主ではなく十字架を背負う主の背中を追いかけていた。そして復活の希望を信じた。然り復活とは希望である。間違いではないがしかしそれを言葉にした瞬間、その希望は理性に復活を納得させるための説明に落ちぶれてしまっていた。それはやはり私自身が復活の朝を迎えておらず、未だ十字架の手前から復活を見つめその復活を理解しようとしていたからだ。
そんな私に「イースターおめでとう御座います」と言えるのか。
復活の朝、我々は「主は生きておられる」、そこに立っている事を確かめよう。かつての「誰が一番偉いか?」という私ではなく、主のご復活と共に新しくされた和解の奉仕者として復活のメッセージの前に立とう。ここから復活の主との出会いに向かっていこう。
しかしその復活の主は光り輝く美しいお姿ではない。それはやはりあの十字架を背負う受難の主なのだ。その主にお使えするにはかつての「誰が一番偉いか?」という私では駄目なんだ。あの私が主を十字架に架けたのだから。新しい私でなければ。
誰かが言った「復活は必要だったのか?」と。神の子イエス・キリスト、確かにそれは十字架で十分明らかとなった。しかし主の復活なくしてキリスト者として生きる私の、私たちの今日はない。主は生きておられる。
イースターに感謝。

孫 裕久

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