交わりと断絶

コリントの信徒への手紙2 6:11-7:1

古代ギリシャにおいてそこはユダヤ教とは相入れない宗教や風習が空気のように存在していた。そのような環境で異邦人キリスト者が教会外の人々とどの程度自分たちを分離させて生きるべきかは難しい問題であった。具体的には既に第1の手紙にあるような未信者との結婚、偶像に供えた肉などの問題であり、これらは宗教的汚れからの分離であった。

イエスの論敵であったパリサイ派はまさにこの汚れから分離する者たちであった。しかしパウロはパリサイ派のそれとは一線を画していた。彼自身異邦人と交際していたしギリシャ人に対してはギリシャ人のように振る舞っていた。しかしパウロもパウロなりにパリサイ派とは違う分離する者であった。

私たちキリスト者も国家権力や差別問題などキリスト者として分離する何かを確かに持っていおりその分離においてキリスト者としてのアイデンティティーを確認する。パウロの言わんとする「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。」(6.14)とはそういう意味である。

しかしそれがキリスト者として正しい分離であっても分離する所に信仰やアイデンティティーを確認するならば、その行き着く所はパリサイ派と同じなのである。パウロも結局はコリントの信徒に対し異教徒と交際してはならないと戒めている。

確かに分離すべきところは分離すべきである。しかしその分離すべき境界線はどこにあるのか?確かにどこかに明確な線引きができる定義や方程式があるのかもしれないが、イエス・キリストによる福音の関心は最早そこにない。二種教職制、未受洗者の聖餐などによる対立的論争はすべてどこに汚れから分離する境界線を引くのかという問題に還元されるのである。

私たちが自らの信仰を確認する場は最早何と分離するかではなく和解である。パウロ自身が説いているように和解の奉仕者として新しく生きる所にこそ神からいただいた恵みがあり、これを無駄にしてはならないのである。(6.1)

孫 裕久

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