心を開く時

コリントの信徒への手紙2 7:2-4

「私たちに心を開いてください。」(7.2)

心を開くとは「信頼する」と言い換えて良い。パウロはコリントの信徒に自分を信頼して欲しいと願っている。その点ではもしかしたらイエスも同じであったかも知れない。しかしパウロとイエスの根本的な違いは、パウロは自分が心を開いたからあなた方も心を開いて欲しいと要求している。しかしイエスはそれをしなかった。

イエスは罪人の隣人となり、自分ではなく隣人を自分のように愛するように命じた。そして「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)と数の内に入らない小さな存在とご自身を自己同一視された。

イエスはただザーカイの家に泊まっただけである。ザーカイの改心は彼自身のものである。イエスはザーカイの改心を期待していたかも知れないが要求はしなかった。イエスは嫌われ者ザーカイの友となった。イエスのしたことはただそれだけである。

神と人へ奉仕する目的は隣人に心を開いてもらうためではない。また奉仕をその交換条件に用いてはならない。しかし私たちは私たち人間の限界をパウロの内に見る。「これだけ奉仕しているのに」と愚痴る声が心の闇から爪の垢では足りない程聞こえてくる時がある。その度に自分の偽善を舐めさせられる。

しかしイエスキリトの十字架において私たちはそれでも尚、神と人に奉仕することを許されているのである。奉仕するその隣人が心を開くか否か、自分を信頼してくれるか否かは、パウロ自身が言うように、その隣人の良心にゆだねるしかないのである(4.2)。それは奉仕の結果であって目的ではない。

例えるならば伝道は教勢を伸ばすことを目的とはしていない。この新会堂は「聖書による独立・神と人への奉仕」それを石杖としその為に建てられた。どれだけ町内の人々がこの門をくぐるかは(それは喉から手が出るほど求めるところであるし事実求めてしまっているが)、それは結果であって努めて隣人の良心にゆだねましょう。即ち見返りを求めず神と人に奉仕して参りましょう。

孫 裕久

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