悲しみから喜びへ

コリントⅡ 7.5〜16

テトスの帰りが遅延する中でパウロは苦しみ恐れていた(7.5)。彼はテトスに託した涙の手紙が返ってコリントの人々の悲しみを深め反感を高めたのではないかと後悔していたからである。
使徒職は神から与えられたものであるが同時に信徒との信頼関係の上に置かれている。(牧師と信徒の関係も等しくそこに雇用契約書なるものはなく100%信頼関係の上に成り立っている。)故にその関係の歪みによる使徒の苦しみは一般の人間関係以上のものがある。使徒にとってそれは死活問題であり、その信頼関係なしに使徒は(例え使徒と任命されようと)その職務を遂行することは出来ないからである。
テトスの報告はパウロに喜びを与えた。それは涙の手紙が結果的に(テトスの尽力もあって)コリントの人々を喜びに導いたからである。そこでパウロは悲しみが喜びに変えられた自身の経験をコリントの人々のそれと同一視し、神の御心に適った悲しみは悔い改めへと導き喜びに変えられることを説いた。
しかしこのパウロの意図はさて置き、実際コリントの人々を悲しませたパウロ本人がそれを言う立場にはない。パウロには関係性と特に社会性が欠落しているとの批判がある。「ユダヤ人もギリシャ人もない」(ガラテヤ3.28)という言葉が結果として「日本人も朝鮮人もない」という言葉を日本人キリスト者の口から聞くのは大いにパウロが責めを負うところなのだ。即ち自由人が「奴隷も自由人もない」とは言えない。
その部分を指摘した上で、しかしながらパウロの説く悲しみから喜びへ向かう福音の方向性は真に然りである。預言者の審判予言はその先の救済予言に向かっており、主イエスも「今泣いている人々は幸いである、あなた方は笑うようになる」(ルカ6.21)と言われた。福音は今の悲しみから確実に喜びへと向かっている。福音というのは、そっちに向かっているのだ。だから和解の奉仕者はそれを心の杖として歩んでまいりましょう。挫けそうな時があるかもしれないが十字架の先に復活の希望があることを信じて。

孫 裕久

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