罪人の孤独

ヨブ記19章1-29

「ヨブは答えた。どこまであなたたちはわたしの魂を苦しめ言葉をもってわたしを打ち砕くのか。侮辱はもうこれで十分だ。私を虐げて恥ずかしくないのか。」(1-3)

苦しむヨブに対する友人らの言葉は自分(ヨブ)を増々苦しめ辱めるものであるとヨブは反論する。
必要に応じて他人の過ちを指摘することはある。しかし程度を超えたり指摘そのものが目的となる時、それは罪人を虐め辱める新たな罪となる。
罪の原因は本人にある。罪人は避難を浴びる。自業自得であるが福音の結論はそこにはない。その虐めと辱めを受ける罪人の隣人となったのが主イエスである。
主イエスは罪人の友となられた。聖書においてこれ程自明なことをキリスト者は日常で忘れている。「隣人を自分のように愛しなさい」という教えの中の「隣人」とは誰か?キリスト者は常に「では私の隣人とは誰ですか?」というあの問いの前に立っている。
13-20節にヨブの孤独が語られる。これ程まで寂しく辛い孤独の描写を私は他に知らない。ヨブに罪の自覚はないが(4節)、仮にそうだとしてもこれ程までに周囲から見捨てられ「息は妻に嫌われ、子どもにも憎まれる」(17節)と言わしめる程に罪人は嫌われるものなのか。繰り返しになるがそれがこの世であり、世はこれを自業自得とし、指摘と称して彼を増々苦しめ辱める。
神はこれを放置せずこの罪人の孤独に寄り添われた。そこに福音の本質が在る。

孫 裕久

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