豊かな者となる

コリントⅡ 8.1-7

彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。(8:2)

エルサム教会への献金を募ることはパウロの伝道旅行の目的の一つであった。今も昔も献金を募る時、そこに慎重さを要する。献金は願いを叶えてもらうお賽銭ではなく、感謝の応答であるとよく説明される。またパウロはその額以上に惜しみなく捧げることを大切にした。「惜しみなく」と訳されている原語は「純真さ」(2.12)と同じ単語であってパウロが好んで用いる言葉のひとつである。
パウロはコリントの信徒たちに対して慈善の業(献金)について豊かな者であって欲しいと願っている(8.7)。これは直接献金の額を指しているのではなく文字通り豊かな者になって欲しいと願っているのだ。
それはマケドニア州の諸教会での経験を背景にしている。彼らは貧しかったが自分の力以上に献げその額はパウロの期待を上回った。またそれは自発的であり献金のみならず奉仕活動にも及んで彼らは神のみ心にそって自分自身を献げた。
「人に惜しまず施す豊かさ」とは単に献金のみを指しておらず以上の経験を含んでいる。そしてパウロはコリントの信徒たちもこの豊かさに預かって欲しいと願っているのだ。
ただその結果として多額の献金を期待していたことは否めない。また献金を献げる側も生活費から支出する訳で無制限に惜しみなくという訳にもいかない。
献金とは実生活に直結した課題でありそれ故に自分の信仰が問われる部分でもある。しかしパウロは自分の生活とキリスト教共同体を切り分けて考えない。さらに広義においては、この世の救済とも切り分けない。それは第1の手紙で「一つの部分が苦しめば全ての部分が共に苦しみ、」(12.26)と記されている通りである。その献金でエルサレムの貧しい人々が豊かになることは、それを献げたコリント教会にとっても豊かであるとパウロは捉えている。
主イエスの「隣人を自分のように愛しなさい」との教えは、このパウロによれば「隣人を自分だと思って豊かにしなさい」と言い換えることが出来る。隣人を愛することは自分を愛することであり、隣人が豊かになることは自分が豊かになることである。そういう信仰をキリスト者は大切にしたい。
キリスト者として豊かな者となりましょう。

孫 裕久

 

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