貧しき者となる

コリントⅡ 8.8-15

パウロはマケドニア州の諸教会が経験した豊かさをコリントの信徒たちにも預かって欲しいと願った。しかし一方で経済的に(既に)豊かであるコリントの人々に相応しい献金を期待していた。それは期待であって命令ではない(8.8)。しかし命令ではないが、キリスト者としてそうあるべきではないか?とする根拠をパウロはここで述べている。

「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(8.9)

敢えて要約するまでもないこのパウロの言葉は、コリントの信徒に対してその(既に)ある豊かさの根拠を示すと同時に、隣人のために自ら貧しくなっていく豊かさ(逆説的)を示している。
豊かさとは何であり、豊かさとは如何に用いるものであり、その豊かさは何処から来たものなのか。パウロは主の十字架と復活によって生かされている恵みをこの一句に込めている。
更にパウロは出エジプトの民がマナに満たされた言葉を引用する。

「多く集めた者も、余ることはなく。わずかしか集めなかった者も不足することがなかった」(8.15)

これは民にとって必要な日毎の糧を神はご存知であるから、不必要に溜め込んだ豊かさに依存してはならないとのことだ。

教会は献金で支えられている。会計役員だけは担いたくないものである。その信仰が今月の決算を見る度に問われる。出来れば「お金」と無関係な所で信仰を育みたいものである。しかし会計役員は算盤を弾きながら、豊かさと日毎の糧についてその信仰を問われ且つ養われている。我々があのボロボロのヨルダン寮で教会とは何であるのか?と問われ考えてきたように。
潤沢な財政に安心する教会は貧しい。むしろ隣人の豊かさの故に貧しくある教会は主にあって真に豊かなのである。
河川敷の歴史が何よりの根拠ではなかろうか。

孫 裕久

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