すべての物を共有する

使徒言行録2:42-47

聖霊降臨により信徒たち間でそれ以前と決定的に変わったもの、それは相互の交わり(コイノーニア)と全てのものを共有(コイノス)にした点にある。
イエス・キリストによる福音は罪の赦しである。この罪の赦しと、相互の交わり・共有は如何に連続しているのか。
コイノスとはハギアオス(清い)の対概念で本来の意味は「汚れ」である。ユダヤ人は律法が定めるハギオス(清い)を守るためコイノス(汚れ)と交わらなかった(コイノーニアしなかった)。
しかしイエスは積極的に罪人や徴税人、重い皮膚病を患う「汚れた者たち」とコイノーニアした。イエス・キリストによる罪の赦しとはハギオス(清い)が排除したコイノス(汚れ)とのコイノーニア(交わり)である。
聖霊降臨後、信徒たちの相互の交わりには、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく男も女もなかった。そこには社会的且つ宗教的な壁が取り除かれたコイノーニアがあった。そのコイノーニアが全てのものを共有(コイノス)にしたのである
使徒言行録の著者(ルカ)がこの文脈でコイノスを用いた点に注目する。ここで「共有する」という言葉を用いる場合、他に相応しいギリシャ語が無いわけではない。しかしルカがここで敢えてコイノス(汚れ)を用いたいのは明らかにハギオス(清い)の対概念として用いていることは疑えない。即ち汚れから清さを守るのではなくそれを解放する。コイノスに世俗的な、一般的なとも訳し世俗化したり一般化することは「汚れる」という意味に通じている。この「汚れ」を否定的にではなく積極的に捉えたのだ。
即ち今まではハギオスを目指していたけど、これからはコイノスなのだ。清さを大切に隔離するのではなくそれを解放して積極的に汚れと交わるという方向性。それはイエス・キリストの福音に言い換えるなら、律法が罪人を作り排除した。しかしその罪人と交わることを通じて罪の赦しが現実のものとなった。同じく清さが汚れを作り、その汚れとの交わりはイエス・キリストによる罪の赦しの福音なのだ。
共有するとは私物化せずみんなで分かち合うことである。しかしその共有はコイノスであって、これが意図する所は、主イエスが歩まれた方向性、それは「清さ」ではなく「汚れ」であり、中央ではなく周辺という方向性の意図があることを記憶しておこう。聖霊降臨によって何が変わったのか?それはハギオスからコイノスへの方向転換である。自らが清くなるために汚れとの交わりを避ける生き方から、コイノスとコイノーニアして全てのものをコイノスする生き方へと変えられた。故に我々は十字架を担うのである。

孫 裕久

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