右手の事を左手に知らせるな

コリントⅡ 11.7-20

奉仕の業は、栄光を神に帰する為に証することはあっても、自らを誇るために語るものではない。偽善者は自らを誇り、誇るために奉仕する。(マタイ6.1-4)
サウロ(パウロ)は自らを誇るものであった。しかし復活のイエスと出会いその偉大な恵みの前に自らの誇りが如何に虚しいものであるかを味わい知った。以来自分を捨てて生きるパウロはキリストの故にすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐えた(コリントⅠ 13.7)。しかしキリストの故に一切を捨てることがその信仰と表裏をなすパウロにとって「ヤツは自分を誇っている」という中傷だけは聞き捨てならなかった。それだけは黙って耐えることが出来なかったのである。偽使徒はコリントの信徒に律法を強要し謝儀を得ていた(11.20)。この所業を批判するためにパウロは敢えて愚か者のように自分を誇るのである。(11.8-10)
今日も開拓伝道の始まりは伝道者の手弁当によることが多い。パウロもそうであった。コリントの人々に一切負担をかけず、自ら働き(使徒18.5)またフィリピ教会からの援助(4.15)に支えられた。その事実を、偽使徒を批判する材料として明かし怒り誇った。パウロの気持ちは分かるが、それは心に閉まっておく事実であった。
しかしパウロは神ではない。私たちと同じ人間である。その人間パウロが人間故に怒りを抑えきれず自らを誇ってしまったこの事実は同じ人間として非難できない。むしろその気持に親しい共感と不思議な赦しを覚えるのは何故だろうか。
もしこの手紙を書き終えて興奮冷めやまぬパウロにかける言葉があるならこう言ってあげたい。
「それは言うべきでなかった。・・・・・・・だけど、気持ちは良く分かる。」

孫 裕久

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