弱いときこそ強い

コリントⅡ 12:1-10

パウロは自分の弱さを誇ろうと言う(12.9)。その根拠は弱ときにこそ強から(12.10)である。弱いときに強いとは、弱いときに働く強さであるが、もう一歩先をいえば弱さこそが強さでありエネルギーの源なのである。
そもそもパウロは自己推薦する人間であった。自分をアピールし、いわゆる出世街道という階段を登っていた。しかし彼に与えられたとげ(病)がその道を阻み、それに抗う先に救いのないことを知った。彼はその弱さの中で復活のイエスと出会った。この弱さとは定義することは出来ない。それぞれの弱さがあり、それぞれの弱いときの強さがある。
私はこの日本に朝鮮人として生まれたことを嘆いた。朝鮮人であることを嘆いたことはない。ただ日本社会で日本人らしく暮らし、神学校で在日らしく振る舞い、韓国で韓国人らしくなろうとした。常に周囲に同化してしまう弱さが何処に行っても付きまとった。役所に行っても、卒業証書授与されても、免許証を取得しても、恋愛しても、そして選挙の時期を迎える度に。
弱いときにこそ強いとは、言葉を補うならば、かつて弱かったときのそれは最早私にとって隠したり逃げたりするものではなく、故にそれを攻撃されても全くダメージを受けず、それどころかそのかつて弱かったものは今では私にとって寧ろ力の源であり生きるバネとなっている、という意味である。私はこの日本に朝鮮人として生まれ、心から神に感謝しています。今少し言えば大変得をしたと正直思っています。多少面倒くさいですが。
信徒説教礼拝で説教を頼まれるのをみなさん嫌がります。しかし難しく考えない下さい。「弱ときにこそ強い」を語ればよいのです。言い換えるなら、あなたの弱さに働きたもうキリストを語れば良いのです。あの十字架という敗北によって明らかとなった勝利を語れば良いのだ。
「弱いときにこそ強い」これはキリスト者全ての普遍的な説教題であります。

孫 裕久

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