我慢を知る

コリントⅡ 11.1-6

仲間同士比べ合って自らを誇ることは愚かである(10.12)。パウロはそれと知りながら「自分は論敵(偽使徒)のように限度を超えて利己的な想いから誇っていない」と、これまた結局比べてしまっていることを自覚しながら「少しばかりの愚かさ」を自白している。そして自分のその愚かさを我慢してくれているコリントの人々の忍耐に心を寄せている(11.1)。
パウロの愛は忍耐(我慢)でありこの忍耐は信じて待つ(望む)ものである(コリントⅠ 13.7)。主イエスは愛について右の頬を打つなら左の頬をも向けなさい(マタイ5.39)、と教えられた。右の頬をも向けよとは殴り返すという結論に急がないという意味を含んでいる。ガンジーやキングの非暴力は、結論を急がず信じて待つ愛であった
キリスト者はこの愛の実践に挑戦しつつ、その不完全さの前に自らの弱さを知る。日々、忍耐できない、我慢できない限界の前で打ちひしがれる。人間は我慢したことに敏感であるが、我慢してもらっている事には鈍感である。パウロは自分の愚かさに対するコリントの人々の我慢に心を寄せている。
イエス・キリストの神は私たちを信じて待っていて下さる(我慢して下さる)神である。キリスト者は神が私たちを愛して下さっている事を覚えて隣人を愛していく。同じく、神が私たちに我慢して下さっている事に気づくように、私に対する隣人の我慢(忍耐・愛・信じて待ってくれていること)に気づいていくキリスト者でありたいと思う。

孫 裕久

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