歴史が語る

マタイ1:1−17

「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」(1.16)

隠し通せるものならばイエスがヨセフの子でない事を隠蔽したかったであろう。しかしマタイが福音書を書く上で、イエスの出自はその一丁目一番地あり避けて通ることの出来ないものであった。イエス・キリストの福音は預言の成就とするマタイの方針は否応なくダビデ家の系図を紐解くことから始まった。しかしそれは同時にマリヤの罪とその男は誰かという最も隠したい事実に読者の関心を誘うのである。
マタイはイスラエルの系図には用いない女性の名前を四人記した。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻(バト・シェバ)である。彼女たちにはイエスラエルの系図を綴る上でそれぞれ隠蔽したい事実がある。しかし一人一人はイエスラエルの歴史を語り継ぐ上で外すことの出来ない重要人物であり敬愛する女性たちである。その彼女たちを本来男の名で綴られる系図に名を連ねた時、そこに確かに訴えるものがあった。それは歴史を直視する勇気と歴史自身が言わんとする事に耳を傾ける姿勢である。これを一言でいうなら真実と言えるかも知れない。
人は見たくないものは見ず、聞きたくないものを聞かない。それどころか、自分が見たいように見て、聞きたいように聞いてしまう。即ち都合よく歴史を解釈してしまう。人間は歴史と向き合う時、それは大なり小なりあって、そこから完全に逃れることは出来ない。しかし人間は可能な限り歴史自身に語らせるよう心がけねばならない。それが歴史を生きる人間というものだと私は思う。その為に我々人間に出来得ることは、可能な限り歴史を直視することである。自分にとって我々にとって出来れば無かった事にして置きたい不名誉な事実を勇気を持って直視する。その時、歴史は我々人間に何かを語ってくれるのである。
その四人の女性の名が記されたイスラエルの系図を見たユダヤ教の歴史家たちはそこに何を見、何を聞いたのであろう。それは彼らに訊ねるしかないのであるが、ただ彼らはその系図の末尾に登場するマリアという女の名前をマルタ、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻と並べ同じ地平で見つめる事が出来たのであろう。そしてそれがこの系図に込めたマタイの意図であった。
かくしてマタイはイエス・キリストの誕生の次第を語り始めるのである。

孫裕久

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