コリントの信徒への手紙2 13:1-13
「それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。」
(13:7b~8)
私はこの一句にこそパウロの信仰が生き生きと表れていると思う。
パウロはここで真理という言葉を用いているが、では真理とは何か?「残念ながら」ではなく、むしろ積極的にそれは定義するものであってはならない。しかしながらパウロはこの一句に真理とは何であるかを見事に言い当てている。
真理は定義してはならない。今真理を定義しようとする者は、自覚的であれ無自覚であれ自分を正当化しようとしている。その意味から敢えて真理を定義するなら真理とは自分を正当化する道具である。
せんえつながらパウロの言葉を若干補わさせていただけるなら以下の通りである。
「律法を守る適格者とみなされたいが為に、真理に逆らう事は出来ないが、真理の為ならば、たとえ失格者(律法違反者)と見なされようとも、それ(善)を行えるのである。」
川崎戸手伝道所にとって堤防を越えること自体はテーマではなかった。ただ隣人のもとに行くために超えねばならない堤防がそこに横たわっていた。隣人とは誰か?その問いは「では私の隣人とは誰ですか?」というあの問いと同質のものであり、聖書に記されている通りそれは自分を正当化するためのものである。
真理は自己正当化の道具に用いてはならない。たとえ自分自身の得に成らず、むしろ評価が下がり最後尾に下落し十字架で虚しく朽ち果てようとも、否故にそれは真理なのだ。真理と成るのだ。予め定められ、その定められた真理に照らして自らをまた他人を評価するのではなく、真理とは成るものなのだ。たとえ失格者と見えようとも。
パウロは生涯自分の評価に対する呪縛と格闘した人かも知れない。自分は評価を求めないとする強い思いが評価に拘り続けている苦しいパウロの姿を投影している。そんなパウロが辿り着いた境地が冒頭の一句である。
すすんで失格者になる必要はない。しかしたとえ失格者と見られようとも成すべきものが、私が人間になるために私の人生には不可欠なのだ。私はそれを使徒パウロから学んだ。
コリントの信徒への手紙2を読み終えるに当たり、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロに心から感謝の意を評します。
孫 裕久